2015年もあっという間に終わりまして、2016年になりました。一年間が早い早い。この分で行くと、10年なんてあっという間に過ぎ去りそうで怖いです。
2016年こそは仕事もきちんと片付け、遊びもガッツリ…と言いたいところですが、毎年目標を立てても出来ない自分を諦め、まあ、程よく頑張りますか…と新年早々あきらめムードな私です。
ふと考えてみると生まれて物心ついて40年。今思えば本当にあっという間ですが、しかしその時々では悩み苦しみ、半日が一週間にも感じることが何度もあったのですから、時の流れとは不思議なものです。
今回はどうでもいい話が永遠と続く気がします。ゴメンナサイ。幼少の生まれ故郷について書いていきます。
私は2.3歳の記憶もパラパラとあるのですが、しっかりした記憶は4歳ぐらいからです。一般のアパートから自衛隊の官舎に引っ越すにあたり、その官舎の下見に赴いた記憶、官舎の隣近所の人から何歳?と聞かれ「4歳!」と指を4本立ててみせた記憶など鮮明に残っています。もちろんその前のアパート時代の記憶もあるのですが、恐怖な事や悲しい事が殆どです。深く記憶に刻まれるとはそういうことなのでしょうね。
下は1976年8月29日の東根市神町地区の航空写真です。
クリックすると大きくなります。ご存知、国土交通省国土地理院の航空写真アーカイブですが、鮮明な写真も通販で購入できます。一枚4,000円程と高価ですが、場所によってはかなり鮮明で人も写っているのが分かります。自分の家の庭に人が写っていたとすれば、家族の誰かの1976年の姿ですから、貴重といえば貴重ですね。因みにうちの庭には傘が干してあり、両脇に人が2人写っていました。前日が雨だったようです。
この当時、旅客機ではない飛行機がよく飛んでいました。駐屯地近くということもあり、ヘリコプターなどは頻回に見ましたが、航空機もよく飛んでいた記憶があります。この写真以外にも測量などの目的で飛んでいたのでしょう。
しかし、その当時の私には航空機は恐怖の対象でした。どこかの国が攻めてきて爆弾を落としていくと本気で思っていたからです。
自衛隊の父の書物などを見ていた影響だと思います。頭上に小さな飛行機が来ると、隣の家などに駈け込んだりして笑われたものです。今思うと滑稽ですが、その当時はホント恐怖だったのです…w
私の住んでいたのは写真の真ん中辺り、赤と青と白のペンキで塗り分けられた小さな自衛隊官舎のうちの一つです。
自衛隊正門前から市営プールに向かう道がまだ砂利道です。工事車両が数台見えることからこの後すぐに舗装されたと考えられます。この道が砂利道の時の記憶、舗装されすごいと思った記憶もあります。
官舎の人の車庫が別に建てられています。この後すぐに車庫は取り壊されて各々の家の前に横付け駐車をするようになりました。
神町小学校の校舎が全て新しくなっています。1972年当時はまだ古い校舎だったようです。グラウンドの東側にはさくらんぼ保育園があります。この写真の詳細版を見ると、入口の柱まで確認できて感動しました。この写真が撮られた当時、この保育園に通っていました。正門西側の砂場、入口のさくらんぼの木、ジャングルと呼ばれていた園庭などほぼ記憶のとおりです。
体育館の脇に土俵が見えます。この後5年後、僕が小学校3年生ぐらいの時に撤去されました。
小学校裏の若木神社参道の両側には桜の木が力強く立っています。ここの桜並木は本当にキレイでした。7~8年後に全て切られました。
平屋官舎の東側の空き地には工事車両が見えます。ここに3棟の4階建てアパートが建つのです。最初2棟。その後1年ほどしてもう1棟建ちました。この写真では基礎のコンクリート棒を打ち込んでいる工事車両が見えます。それも記憶にあり、同級生の阿部くんと工事現場で遊んだものです。
アパート完成後、小学校一年の同級生がここに入居していたので遊びに行きました。すごい高級な作りで憧れでした。幹部が多く住んでいたようです。その同級生も中隊長の息子でした。
左側、2棟5列の官舎の一番上左端に電話ボックスと掲示板が写っています。数年後、ここにコカコーラの自動販売機が置かれてえらい騒ぎに。お金を入れたら左側の扉を開け500mlのガラス瓶を抜くやつです。同時に2本抜けないか、みんなであれやこれや試したのが懐かしい…まあ抜けませんでしたけど、栓抜きを持って行ってBOXの中の瓶から直接飲んだ奴はいました。王冠の裏をめくるとスーパーカーの絵などが書いてありました。10円とか当たるやつもありましたね。いい時代でした。
緑色になった水をたたえた東根市市民プール。この当時は小学校にプールがなく、ここまで歩いて授業をしてました。真ん中の管理棟もまだ無い頃ですね。プールの下にある青い屋根の家は話題になった家でした。ここで書くのははばかれますが、その当時はえらい騒ぎになていたようです。その後もお母さんは住み続けていましたが…
プールの東側の空地に新しいさくらんぼ保育園が建ちます。この写真の2.3年後です。この当時は山になっていて、遭難ごっこや山登りをして楽しみました。山と言っても土ではなく、進駐軍撤退後取り壊された建物のコンクリ廃材などが山になっていたのです。他にも水たまりを埋める際などコールタール状の物を敷いていましたが、それも進駐軍の神町キャンプ(Camp Younghans )専用引き込み線で蒸気機関車に使った石炭の燃カスを利用したものでした。その他、耐火レンガなど駐屯地から拾ってきてゴミ焼き窯を作ったり、ケバケバしい色のペンキが厚く塗られた進駐軍の建物を取り壊した廃材で植木棚を作ったり。今でもペンキの匂いを嗅ぐとイヤに天然色な植木棚を思い出したりします。
と、ひとり語りになりましたが、懐かしいと思ってくれる方もいるはず! ですよね? まだまだ続きます!爆
68年生まれの自分にとって、この頃に、帰りたいと思ってしまいます‼︎
satoさまは2こ上の先輩ですね。宜しくお願い致します。私は小6時に神町を離れてしまいましたので、同級生も含め同窓生の方に関する記憶があまりありません。2つ先輩だと極近所に高木君という方がいました。あの頃は商店も多く活気がありましたよね。
あの頃は、本当に神町楽しかったし、まさに山形の横浜です‼︎メールでお話ししたいです‼︎
09075274919
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